昭和43年11月25日 朝のご理解
ご理解第89節「この方の道は傘一本で開くことができる。」
これはいよいよ信心によって、すべてのおかげの道を開いていけるというのである。信心によって、すべてのことのおかげの道を開くことができると。この方の道は傘一本でとこう言うておられるところは信心によらなければ頂けない喜びとか安心とか、いうものが得られる。ね、その喜びに、その安心の心、いうならば平生心というかね、その心にすべてのおかげの道が開けてくるというのである。ですからもうこれは、信心によっていよいよおかげを頂こうと、熱中する人、信心によって、いよいよ幸せにならせて頂こうと熱中する人でなからなければわからないと思う。ただお願いをしてああいうおかげを頂き、こういうおかげを頂いたと、いうようなおかげではない、断片的なおかげではない。道が開けるというおかげ。すべてのことが、お商売をさせて頂いているなら、商売繁盛の道がひらける。まあいうならば、子孫繁盛の道がひらける。すべての、そういう道が開ける。そういう道が開ける、この方の道は。傘一本で開くことができる。
そこで、信心によらなければその傘一本がいただけん。傘一本というのは、信心から得られるところの安心ということであろう。そこで私はあの、この89節をそのようにいよいよわからせてもらう、いよいよ信心によらなければ私の一家は立ち行かんと、いよいよ信心によらなければ私は救われないと、いよいよそこに焦点をおいてそこに熱中する、人でなからなけば、ここんところはわからないな、そのためにね、私はこの88節のお芝居のところを一つよくわかる、ね、この前のだんですね。
「心に辛い悲しいと思う時、鏡を立てて悪い顔を人に見せぬようにして、家をおさめよということであるというてある。」ね、辛い悲しいと思う時、鏡をたてて、悪い顔を人に見せぬように。人間はさまざまな時がある。いい顔ばかりをしておれん時がある。ですからそういう時に、その自分の心をとりなおさせてもらうために、鏡が必要だということ。いわゆる、教えが必要だということである。教えを心の中に思い出させてもらう。鏡をのぞかせててもらう、そこに映る自分のいわば浅ましい姿がそこにある。教えを紐解かしてもろうて、ね、ほんとに浅ましい自分の心を見極めることができる。そこからいうなら、心の映り直しができる。いわゆる人に悪い顔を見せんですむようになる。人に悪い顔を見せぬようにして家をおさめよということである。私はそういう修行がね、なされなければ、この89節はわからん、傘一本はいただけんと思う。
言うばっかりの先生、いうなら口ばっかりの先生のところに、聞くばっかりの信者と。そのみ教えを頂いたことがあるんですけれども、ね、あっちの先生はお話が上手、この頃もあるご大祭で、二時間半にわたってお話をされた先生があった。まあこのへんきって、お話が上手な先生なんですね。もうそれこそ眠気どんがつく段じゃなか。お話もやっぱり大学も出ておられるし、もう理路整然として説かれる。素晴らしいお話であったというわけである。ね、ところが、素晴らしいその眠気どんたつことはない、もう本当にお話の中にこの話を聞くのが没頭してしまうほどに一生懸命に聞かせてもらえるだけの話のできる先生なのですけれども、やっぱりこの人は言うばっかり的な感じがするのです。その証拠に長年ご自分の教会では人が助からんのです。
だからその話を聞いて助かる道とおっしゃっても、ただ話だけではいけない。学校でもわかる。子供に言うて聞かせる。信心のないものに話をしてきかせるというてもそうである。ほんと信心の話、信心ちゃありがたい、そりゃ他の話よりも、やっぱありがたいと思うけれども、それを相手がおかげにしてくれなかったら話は何にもならん。これはもう私は本当に思うのです。もう口ばっかりの親先生。と例えばみんなは思わんでも、神様が思いなさるようなことがあろうと思う。こんやつばっかりはもう言うこつばっかり。もうこれからまるきり口からさき生まれたとじゃろうちいうごとその言うこつだけはむごいうばってん、しかもりっぱなことを、しかも人に一時間でも二時間でもとうとうとして解き得る内容を持ちながら、内容という、話のできれる才を持ちながらです、相手はただ聞くばっかり、聞かせるばっかりの先生。いうばっかりの先生のところに、聞くばっかりの信者と。なあにんなりよらんわけ。おいしいおいしいとたべとるけれどもそれが血にも肉にもなりよらんというのですよ。だからおいしいおいしいと食べる、それだけでもまあ悪いことはないですけれどもね。それはもうとつとつとして、その話をすすまない。けれどもその内容からほとばしる話。いわゆる信にありがたいという話。それであって初めて信者がおかげを受けていく徳をうけていく、力を受けていく。私たちはせっかくこうやって本当に自分で思うのに、ね、この話は私の知恵やら力での話せる話じゃない。いわば神様の話をお取次ぎさせて頂きよるとだなと思うほどに私も思う。そういう素晴らしい話であってもです、その話が、ね、ただ素通りするだけのことであったとするならば、これを一番反省しなければならないのは私である。結局いうばっかりの先生に終わっておる、話ばっかりの先生に終わっておる。内容がない、自分自身は一つもそれを行のうえに表しておらないのだと悟らしてもらわなきゃならん。
みなさんも一つ、本当に自分も言うばっかりの、ただお話を覚えてそれを詳しゅうなっていきよるだけの、それを責め道具にだけしか使い切っていないというならおしい。親先生はこういいなさるじゃろう、と例えばならそれをいうてもですね、そういう風にして責め道具に使っても相手が一つもそれを反省する色がなかならおかげをいただかんとするならです、自分自身がいっちょここんところを、本気で教えを行ずる気にならしてもらわなければ、ね。
心に辛い、悲しいと思う時、鏡を立てて悪い顔をして人に見せぬようにして家をおさめよ。悪い顔をしながら家を治めよなんて、おさまるはずがないて。やかましどんばっかりいうちから、家をおさめようとしたっちゃ、そん時はしずまったようにあっても、それで本当に治まるはずがないて。いうばっかり、口ばっかり、自分はどうか。と心の中に思うて聞きよるものがどうしてそれを受けるはずがない。自分はどうかといつもこう、自分というものを本気で見極めていかないけん。そこに口ばっかりの自分を発見する。いうばっかりの自分をそこに見極めることができる。
そこからなんです、ね、そこからそれを行じさせて頂くところから生まれてくるところの安心なんです。これは安心というものは、やはり与えられるもの。日日そうした本気での取り組みがです、ね、心のなかに大丈夫と、心配するなと、いえれる私は安心が生まれてくる。もちろん心の喜びもそこから湧いてくる。そこから私はこの方の道は傘一本で開くことができる道とは、そこから開けていく道を私は言われるのではなかろうか。商売繁盛の道、ね、すべてが整うていく道。そのひとこごとじゃない、すべてのことが整うていく。そういう頂き方がですね、天地の芯だから。天地の芯というのは、天地の心だから。いうならば、そういう考え方が、一番間違いのない考え方だから。家を治めるのにまずは自分自身の心を治めよと。それを口でいうて治めようとして、治まるならまだよい。治まらんなら、ね、いうばっかりの先生、いうばっかり、口ばっかりの自分というものをそこにわからせて頂くということが、天地の芯だから。だからすべてのことが整うのです。天地の中にあるすべてのこと。どんなにもつれておる問題でも、どんなに難儀な問題でも、天地の中に起きておるすべての難儀なことがありがたいことに、解決の糸口というものがそこからできてくるのである。いわゆる天地の芯だから、天地の芯に触れるから。それがわかるから神様が喜んでくださる、その喜びが私共の心に尽きぬ喜びとして喜びを感じさせて頂けるのである。
そこからね、おかげになる、必ず道が開ける。心配するな、と例えば言えれる信心がうまれてくる。それを安心という。この方の道は傘一本で開ける道というのは、そういう安心、信心によって生まれてくる安心、喜びから生まれてくる安心、そういう傘一本をうるということはね、いよいよ信心によらなければ、人間の真実幸せはありえない自分自身が、この神様によらなければ助からんのだと思いこみがでけて、そこに焦点をおいて信心のけいこをさせて頂こうというそれがなければ、だからここんところの、この八十九節、「この方の道は傘一本で開くことができるということはわからないと思う。
いろいろの安心の心というか、そういうものが心の中にいよいよ確固たるものとして、心にきづかれていくけいこにはさまざまな稽古がありますね、それは世の中の、世の中に信心する人、または信心によっておかげを受けてきた多くの先輩先達の人たちがですね、辿られた、様々な道がありますね。けれども、そういう様々な生き方、ありかたの根本になるものは、今私が申しましたところから、発したものでなからなければだめなんです。
例えてまあいうならばね、親に孝行をして神に不幸し、親に不幸をしておる氏子がある。神に孝行をし、親に不幸をし、そして後に親に孝行をしておる氏子がある、と桂先生はいうておられます。ね、そういう生き方が、これは一つの生き方なんです。もう一にも神様、二にも神様というのである。ここへんのところをです、まあ例えていうならば、神様のほうをあとにして、親にこりをつませんように、まあこれは親であるならば、子供のよくありますよね、子どもにこりをつませんようにして、そして神様のほうにご無礼してこういう生き方ではいつまでも親子の助かりもなからなければ、本当の助かりはない。本当の親孝行はできない、これはこどもの場合でもそうです。
昨日、ある方がお参りをしてきて、今度の造園ですね、植林のことについてから、お通知を頂いた。どうでもこれこれだけはおかげいただきたいと思うと。それだけの金額があると、あるところの借金がしまえる。けれどもこれを向こうに払わしていただこうと思いよるところにご通知を頂いた。別に余裕があることはない、そのだんだんためておったお金がたまって、いよいよその人のところにお払いをしたいという気持ちでためておったのがおかげでたまったところへそのお通知を頂いたとこういうのである。私の心は決まった。゜これはもうしばらく先方には悪いけど待って頂いて、ご造園の、ご造園の植林のほうにどれどれこれだけのおかげを頂きたいと腹を決めたんですけれども。まあところがその、またある方から抽象的にですね、注意を受けたと。あんた誰だれさんからお金を借りてるげなじゃないのと。向こうはそうにあんたのことを悪ういいござったよと。と、そういうようなことが期せずして一緒になった。
ね、向こうに払わしてもらうという金がだんだんためていってでけた。そこへちょうどご造園の通知を受けた。そこへある人があんただれだれさんから金をかりとるげなね。あんたんことを悪ういいござったよち。そういう三つの話がそのすぐそこに自分の心がまんじと思うん迷うてきておるわけ。ようは決まっとった腹が、またこれは相手にこりをつましちゃいかん、とこう思うたわけなんです。みなさんならそのどれを取られる。ね、そこんところにですね、おかげを頂いていく道がある。けれどもですよ、けれども今日私がいう、そのまあ一つ向こうにある根本的なものなんです。ね、いわゆる傘一本が頂けれるというための道を、私が口ばっかりの先生のところに聞くばっかりの先生。家を治めるまえに、まず自分の心を治めよとこうお話させてもらった。これが根本にならなきゃいけん。ね、そして途中半端な今んところに、ただ親に孝行てし、神に孝行してと、そのどちらでもそれは、まあいいにしてもです、ほんとうなおかげの頂けれる道というのはです、やはり神に孝行してその時には親に不幸のようであっても、神に孝行して親に不幸をして、そして後に神様から自分がする親孝行じゃない、神様からさせて頂く親孝行でなからなきゃほんな親孝行じゃないという、そういう生き方なんです。
ここのお金がようやくでけた。借金ばらいをするか、それとも向こうにお祓いをするか、造園のほうにおかげを頂くか、けれどもここにはういう、いわば話が耳にはいってきたからこう、迷う。そういう時にはです、よし悪いいわれるついでなのだ。あちらには悪いけれどもお詫びさせて頂いて、やはり神様のほうを取らせて頂くのが本当だと私は昨日その方に申しました。初めあんたがそれを受けたときに、決心したその心を神様はみてんなさる。ね、そして悪ういわれておってもです、それを一つ修行と受けさせていただくとね、あんたがはらう、今度神様から払わらしていただく時には向こうの人が一番喜ばれるときに、払うことになるだろうと私は申しました。これはもう私自身の体験からそれを申した。もう本当にまるまるさん、ほんとにこれで私どんも助かった、ようこそあんたに貸しとってよかったとうごたるときにて払わして頂くことができるんですよ。間違いなかです、ね。神様から払わして頂くのであるから。向こうにも喜ばれる、今頃とぶんじゃ、ただ貸した分ばもらうとじやから当たりまえのこと。まあよかったよかったで向こうが、まあひっかからんでよかたと思うだけなんです。
そうじゃなくてです、自分が借りたことが先方も助かりなさるようないわば支払いの仕方がある。それはずるして払わんのじゃない、まず神に孝行をしてというところをとおっていくからなんだ。そしてのちに、親に孝行をするという氏子があるという生き方。ね、例えばそうい意味の例でです、おかげの受ける一つのこつあいといったようなものは、たくさんの例えば先輩、先達の人たちがです、そういうおかげを受けた話を残しておったくださることは事実です。けれどもそれとてもです、ね、それがただ、テクニックに終わっただけではいけないということ。おかげのテクニックに終わっただけではいけないということ。根本のところがそれであって、そうさせてもらわなければおられないというのであって、初めて、いわばそこから開ける道、商売なら商売の繁盛の道がすべての難儀な問題がです、ね、いわる子孫繁盛の道がそこから開けてくくるという、なぜか、それはそれが天地の芯だからということ。
家を治めるというのにまずは自分の心を治めよと。人に話して聞かせる前に、自分自身がまず行じよと。自分のものにして、それが大事。いうばっかり、いわばどんなに例えば金光様の先生なんかはお話をけいこを一生懸命するわけなんです、そして病気のお願いの時にはこげなお話をせよ、金銭でこまって、信者がおるならこけな話をせろ、人間関係の問題の時にはこういうご理解をせよと、ちゃんとこうだいたい決めて会ってからですね、それで助かるごとおもとる。いかにも理屈にはあうけれども、それじゃおかげいただかれん。病人に金銭のお話でもいい、金銭に難儀をしておる人に病気でおかげを頂いた話でもいい、真実自分がおかげを受けたという話じゃなからなければ、それはかよわないて。私はそう思う。
ね、いわゆる口ばっかりじゃいけんのだ。いうばっかりに聞くばっかりの先生、いや信者。ね、そこで例えば信者がわからんのじゃない、私自身がわからんのだというようないただき方。家が治まらんのは、どうしてか、自分自身の心が治まらんからとわからせて頂くということはです、それが天地の芯だから。それが天地の心なんだから。だから天地のなかにおきてくる、天地の中である一切の難儀が解決するのだ。
天地のこと、よりて整うのである。そこのそこんところを、天地の心におうて、おうから整うていくのだというのである。このおかげでなからなければね、このおかげでなからなければ、いわば傘一本で開くことができる道という道にはならない。いよいよめでためでたの若松様よ、枝もさかえる、葉も繁るというではないかと、生神金光大神は、家繁盛子孫繁盛の道を教えるとおっしゃるのは、そういう道を教えてくださるのだ。そのかんの、いうならばおかげを頂く骨愛というようなものは、みなさんも体験して中かなおかげを頂く骨愛というものをちょつとこう把握して居る方人もあるけれども、それはそのときそのときのおかげだけにすぎんのだ。道が開けるということにはならんのだ。テクニックだけじゃいけんのだ。せっかく一にも神様、二にも神様という生き方でいったところでです、今日私が申しますところの私はその、根本的な、いわゆる天地の芯に通うような生き方をまず自分の信心のうえにいただいてからそしてのちにテクニックである。
この型の道は傘一本で開くことができる。この89節をです、私88節の「人に悪い顔を見せぬようにして、家を治めよということであるというここのところが根本にならなければ。まずい家をおさめて、自分の心をおさめるということをいうことからわからせていただかなければこの89節はわからん。それはいよいよお道の信心によらなければ自分はたすからん、いよいよ自分のお道の信心によらなければ自分の一家はたすからん、お道の信心によらなければ、本当の繁盛の道には幸せの道にはなれんのだというそこまでの思い込みができなければね、ここの傘一本で開ける道とはどういう道だろうかというふうにこの道を追及していく心すら起きてこないとおもうんです。そして追及していくところからです、根本にある天地の芯らかよう、ここんところを頂いて、そして後に様々な生き方、それは素晴らしい、だからふつうで聞かせてもらう体験談というのはですね、その人のテクニックによってあらわれてくるおかげ話なんですよね。ふつう一般に聞く話は。私はこげなん時にこげなん信心してこげなんおかげを受けたと。ね、いうなら御用すれば助かるといったようなのも一つのテクニックなんです。おかげをうける。確かに助かることだけは間違いないです、そのことが神様のお喜びなることであるとするなら。けれどもそれよりまいっちょ向こうのところをにいかなければ、傘一本で開ける道といったような道にはでることはできないということなんですね、どうぞ。